判決に影響を与えた朝日新聞の第三者委報告    野中善政氏の論考から

 

オンライン論考「植村裁判の東京地裁判決に見られる論理破綻」で判決を分析・批判した野中善政氏は、「第三者委報告は判決に大きな影響を与えた」とし、「第三者委報告がつまみ食いされた感がある」個所を具体的に列記している。         

 



植村裁判の東京地裁判決に見られる論理破綻

野中善政(宮崎大学名誉教授)
アジア・言論研究会オンラインジャーナル2020vol.3掲載

論考全文PD

(以下抜粋)

5.第三者委員会報告書と植村裁判東京地裁判決
朝日新聞の「吉田証言関連記事」(1982
年~1997年に掲載された16本の記事が2014年に取り消された)及びその他の慰安婦報道を検証した「朝日新聞社第三者委員会報告書」(「第三者委報告書」)が2014年に公表された。報告書は,朝日新聞が一時期,従軍慰安婦の強制連行説に傾いて吉田清治の虚偽証言を報道した不祥事の原因を追究し,朝日新聞の報道体制を批判的に検証して是正のための提言を行うものであった。また報告書は朝日新聞の慰安婦報道がこの問題に対する国内及び韓国を含む国際社会の理解にどのように影響したかを分析している。

-1 第三者委報告書は地裁判決でどのように用いられたか
第三者委報告書は朝日新聞に掲載された吉田証言関連記事と植村記事ABを時系列で追い,国政や・外交への影響を分析している。第三者委報告書は,慰安婦招集における狭義及び広義の「強制連行」の定義は第三者委員会の任務ではないとして,吉田証言関連記事と植村記事の関わりについて明確な結論は出していないが,相互関連があったとの疑義を提示し,朝日新聞社は報告書公表直後に植村記事Aの一部訂正を公表した。

東京地裁判決は,第三者委報告書よりも一歩踏み込んで,植村記事A
を,日本軍による慰安婦強制連行の実例を報道した記事と認定するため,そのテコとして「第三者委報告書」を証拠採用したものと受け止められる(「2-2植村裁判の転回点」参照)。

第三者委報告書は植村裁判の東京地裁判決に証拠として採用され,判決に大きな影響を与えたが,植村記者と記事ABに関する報告書の記述は次の5点(筆者の要約による)である。

(1) 植村は韓国の取材経験から,朝鮮で女性が慰安婦とされた経緯について,「強制連行」されたという話しは聞いていなかった。
(2)
 植村がその取材経緯に関して個人的な縁戚関係を利用して特権的に情報にしたなどの疑義を指摘されるところであるが,そのような事実は認められない。植村が記事Aを書くことについて特に有利な立場にあったとは考えられない。
(3)
 植村は,記事Aで取り上げる女性は「だまされた」事例であることをテープ聴取により明確に理解していたにもかかわらず,記事A前文に「『女子挺身隊』の名で連行」と記載したことは,読者に強制的な事案であるとのイメージを与える点で安易かつ不用意であった。記事本文の「だまされた」と前文の「連行」は社会通念あるいは日常の用語法からは両立しない。
(4)
  植村は,記事Bを書いた時点で,金学順がキーセン学校に通っていたことを承知したはずだから,キーセン学校のことを書かなかったことにより,事案の全体像を読者に伝えなかった可能性はある。植村の「キーセン」イコール慰安婦ではないとする主張は首肯できるが,読者の判断に委ねるべきであった。
(5)
 植村は済州島に赴いて吉田証言に出てくる事実の裏付けとなる証人の有無などの調査を実施した。植村は本社に「いわゆる人狩りのような行為があったという証言は出てこなかった」とのメモを提出した。

さらに強制連行の「強制性」について第三者委報告書は次のような意見(要約は筆者による)を述べている。


(6)
 この報告書において「強制性」について定義付けをしたり,慰安婦の制度の「強制性」を論ずることは,当委員会の任務の範囲を超えるものである。
(7)
 朝日新聞は当初から一貫して「広義の強制性」を問題にしてきたとはいえない。その朝日新聞社が「強制性」について「狭義の強制性」に限定する考え方を他人事のように批判し,「河野談話」に依拠して「広義の強制性」の存在を強調する朝日新聞の論調は,のちの批判にあるとおり,「議論のすりかえ」である。

第三者委報告書の意見(1)
(7)が各証拠を補強する形で用いられ,地裁判決に影響を与えたと思われる箇所は次のとおりである。

意見(1)
(3)「原告記事Aの本文中には,金学順が従軍慰安婦となった経緯について,確かに「だまされて慰安婦にされた」との記載があるものの,金学順をだました主体については記載がないことからすれば,原告記事Aは,金学順を従軍慰安婦として戦場に連行した主体について,専ら日本軍(又は日本の政府関係機関)を想起させるものといえる。」(東京地裁判決4218行目)

意見(2)
「西岡論文Bの記述は,原告が義母の縁故を利用して原告記事Aを書いたとの事実を摘示するもの解されるが,上記②で述べたとおり,同事実は原告の社会的評価を低下させるものとは認められない。」(東京地裁判決3426行目)


意見(3)
(4)「上記のような各記載があることからすると,被告西岡が,①原告も,原告各記事の執筆当時,金学順の上記経歴を認識していたと考えたこと,そのため,②原告が,上記経歴を認識していたにもかかわらず,原告各記事に上記経歴を記載しなかったものと考えて,③原告が,各記事の読者に対して,金学順が日本軍に強制連行されたとの印象を与えるために,あえて上記経歴を記載しなかったものと考えたことのいずれについても,推論として一定の合理性があると認められる。」(東京地裁判決4014行目)


意見(5)
「西岡論文Aは,原告記事Aの内容について,金学順を吉田供述のような強制連行の被害者として紹介するものだとの意見ないし論評を表明するものと解されるが,このような意見ないし論評が原告の社会的評価を低下させるものとは認められない。」(東京地裁判決3317行目)

 

第三者委報告書の意見(2)に対応する地裁判決の箇所は,被告西岡は「原告が義母の縁故を利用して記事Aを書いた」と主張するが,その主張は原告の社会的評価を低下させる(名誉を毀損する)ものではないので「認定摘示事実」からは除外するというものである。しかし意見(2)は「原告が縁故を利用して記事Aを書いたとは認められない」というものであり,地裁判決が「第三者委報告書」を証拠として重視するのであれば,むしろ「認定摘示事実」に残し,当該「認定摘示事実」は否定されるとの認定がなされなければならない。第三者委報告書が証拠としてつまみ食いされた感がある。同様な「認定摘示事実」の恣意的選択は高裁判決にも登場する。

「控訴人は,西岡論文C
は「地区の仕事をしている人」自体が控訴人の創作である旨を指摘したのであり,この点も摘示事実として認定されるべきであると主張するが,結局のところ,権力による強制連行との前提にとって都合の悪い内容を記事にしなかったという本質においては共通であり,上記主張を踏まえても前記認定判断を左右するに足りない。」(東京高裁判決2520行目)


図1(略=編者)

 

高裁判決の趣旨は,西岡論文C③を別個に「認定摘示事実n」に認定すると,原告の的確な反論があり,「認定摘示事実1」(原告は権力による強制連行との前提にとって都合の悪い内容を記事にしなかった)の正当性を減殺する要素となるので,摘示事実1に摘示事実nを含めてしまうというものである。被告西岡の主張の正当性を裁判所が「分割払い」で判断することになり,原告にとっては不当な訴訟指揮であろう。

意見(7)
「原告は,原告記事Aを執筆した当時,日本軍が従軍慰安婦を戦場に強制連行したと報道するのとしないのとでは,報道の内容やその位置づけが変わりえることを十分に認識していたものといえる。」,「原告作成の陳述書(甲115)には,原告記事Aの「連行」の文言は,「強制」の語がついていないから「強制連行」を意味しない旨の記載があるが,「連行」の一般的な意義・用法に照らし,「連行」と「強制連行」との間に有意な意味の違いがあるとは認められないから,上記a及びbの認定判断は左右されない。」(東京地裁判決4425行目)


原告が記事Aを書いた1991年当時も朝日新聞は「吉田証言関連記事」を掲載し続け,慰安婦の強制連行説に傾いていた。原告記事Aもこの説に基づいて書かれたはずだから,今更,原告が記事Aの「連行」を「広義の強制連行」と言い換えるのは認められないというものである。

-2 第三者委報告書に対する評価
地裁判決では,植村裁判の争点が

 争点1(本件各表現による原告の社会的評価の低下)
 争点2
(違法性・責任阻却事由)
の二つに整理されたことは第3節の冒頭に述べた。そして「ある表現による事実の摘示又は意見ないし論評の表明」が原告の社会的評価の低下させるものであるかどうかは一般の読者の普通の注意と読み方を基準とするとしている。


「人の社会的評価を低下させる表現は,事実の摘示であるか,又は意見ないし論評の表明であるかを問わず,人の名誉を毀損するというべきところ,ある表現による事実の摘示又は意見ないし論評の表明が人の社会的評価を低下させるものであるかどうかは,当該表現についての一般の読者の普通の注意と読み方を基準としてその意味内容を解釈し判断すべきである(最高裁昭和29
年(オ)第634号同31720日第二小法廷・民集1081059頁参照)。」(東京地裁判決3113行目)

 

次に「ある表現による事実の摘示又は意見ないし論評の表明」が人の社会的評価の低下させるものである」と認定された場合,その行為が公共の利害に関する事実にかかり,かつその目的が専ら公益を図ることにあった場合に,摘示された事実が重要な部分について真実であることの証明があったときに,上記行為には違法性がないとする。

しかし何を以て「一般の読者」とするかは,慰安婦問題について,国内世論が「リベラル派」と「保守派」に割れている状況では難しいところである。さしずめ,リベラル派は原告植村隆や原告弁護団と「植村裁判を支える市民の会」であり,保守派は植村裁判の被告西岡力氏や櫻井よしこ氏らである。おおまかに言えば,保守派は,旧日本軍の従軍慰安婦・慰安所制度は第二次大戦以前の「公娼制」(これ自体国際法の観点から極めて疑わしいのだが)の延長,軍事的編成であり,当時の国際法の枠内にあるという立場に立ち,元慰安婦に対する謝罪・補償は本来,必要がないと考える。従軍慰安婦の徴募が強制連行だったのか,それとも民間業者が仲介する周旋や斡旋だったのか,保守派が徴募方法の細部に徹底的に拘るのはそのためである。他方,リベラル派は,民間業者が介在したにせよ,旧日本軍・政府の計画的・主体的関与[8](慰安所の設置,監督・統制,業者の選定)が従軍慰安婦制度の本質であり,国際法違反(戦争犯罪)であるとの立場に立っている。そして問題解決のためには日本政府が法的・道義的責任を認めて被害を受けた女性に謝罪と補償をすること,歴史研究・教育を通じて再発防止措置をとることが必要であると考える。

以上の事情を考慮し,「一般の読者」とは植村裁判の原告と被告の中間に立つ人々だが,地裁判決は「一般の読者」の読み方を無難に「第三者委報告書」に求めたと考えるべきだろう。 しかし「第三者委報告書」が国内的には「一般の読者」を代表したとしても,果たして国際的に「一般の読者」の代表たり得るかは不明である。これについてはリベラル派の評価として,「第三者委報告書」に対する土井敏邦氏の評価を引用する。(土井敏邦氏のサイト「日々の雑感」2014年12月25日)

「(略)・・・全体を読み終えて,この「報告書」が,「慰安婦」問題の根源,本質からずれている,いや意図的にずらしているというような違和感を覚えてしまった。それは以前読んだある記事を思い出したからだ。
その記事のなかには元外交官の東郷和彦氏が,2007
年にアメリカで開催された歴史問題シンポジウムでの,あるアメリカ人の以下のような意見を紹介していた。
 「日本人の中で,『強制連行』があったか,なかったについて繰り広げられている議論は,この問題の本質にとって,まったく無意味である。世界の大勢は,だれも関心をもっていない。……
慰安婦の話を聞いた時彼らが考えるのは,『自分の娘が慰安婦にされていたらどう考えるか』という一点のみである。そしてゾッとする。これがこの問題の本質である」(『世界』(20138月号/「日本軍『慰安婦』問題再考」・吉見義明)・・・(略)」
「(略)・・・さらに朝日新聞が8
5日付けの記事「慰安婦問題の本質 直視を」の中で,「女性としての尊厳を踏みにじられたことが問題の本質なのです」と結論付けている点に関して,林氏は,こう鋭く切り込んでいる。
 「結局,朝日新聞も,『国家の責任』『国家のプライド』という枠組みから離れることができないまま,『女性の人権』という言葉を急ごしらえで持ち出して,かねてから主張してきた『広義の強制性』という社論を正当化してきた印象がある。『本質』と言いながら,慰安婦問題の本質と『女性の人権』とがどのような関係にあるのか。日本の帝国主義が,女性や植民地の権利を周縁化し,略奪することで成立していた体制だったという基本的事実を,読者に十分な情報源として提供し,議論の場を与えてきたとは言い難い」・・・(略)」
「(略)・・・この林氏の「個別意見」と比べ,岡本行夫氏の「個別意見」はあまりにも浅薄だ。「記事に『角度』をつけ過ぎるな」と題されたその文章の中で「出来事には朝日新聞の方向性に沿うように『角度』がつけられて報道される。慰安婦問題だけではない。原発,防衛,日米安保,集団的自衛権,秘密保護法,増税,等々」「『物事の価値と意味は自分が決める』という思いが強すぎないか」「新聞社は運動体ではない」
 ものを書く人なら,あるものごとについて記述する時,その件に関して無限にある情報の中から記述に必要な素材を
選択するはずだ。その時点ですでに書き手の視点,『角度』,あるいは主張が働く。「物事の価値と意味」が決められなければ選択はできないし,記事も書けない。・・・(略)」

植村記事について,第三者委報告書は,「「だまされた」と「連行」は両立しない。キーセンの経歴をかくべきだった。」などの提言をしているが,植村氏は,「金学順の証言には「だまされた」と「連行」が混在していた。キーセンの経歴は必要ないと考えた。」と証言している。岡本流に言えば,植村氏まさに記事に『角度』をつけたのである。