集会・講演・支援 中野晃一氏講演
2016年6月に「負けるな北星! の会」が開いたシンポジウムで、上智大学教授の中野晃一氏が「右傾化する政治の中で」と題して基調講演をした。このシンポジウムは、同会のそれまでの活動を総括するために開かれた。中野氏は同会が2014年10月に結成されて以来、内田樹、香山リカ、山口二郎、小林節、内海愛子、田中宏、海渡雄一氏らとともに呼びかけ人をつとめてきた。(2016年6月12日、北大学術交流会館で)
講演 中野晃一 右傾化する政治の中で |
みなさんこんにちは。みなさん、きょうはこのような場にお招きいただき、ありがとうございます。ご紹介いただいたように、一応マケルナ会の呼びかけ人の一人とさせていただいておりますが、ふだんは東京にいるので、きょうこのような場で総括シンポ、僭越でありなが光栄に存じます。
きょう、いただいた時間のなかで、小一時間、45分程度になると思いますけれども「右傾化する政治のなかで」、ということで、植村さんに対するバッシングが起きた、政治的な背景、文脈を私なりに分析されていただけたら、と思う。その後のクロストークで、植村さんや田村学長など当事者、また直接、マケルナ会のなかで行動をともにされた方々の話を、質問を交えてうかがえると思いますので、私は、できれば全体像といいますか、どういった日本の政治の変化のなかで、このような事件が位置づけられるのか、みなさんが考えるきっかけになればいいかなと思っています。
レジュメがお手元にあるかと思います。A3を半分にわっているが、「右傾化する政治のなかで」が、3ページある。とりわけ北星、植村さんのバッシングにかかわる部分を振り返りたい。
私自身が残念に感じていることだが、こういったような政治状況は、もちろん一夜にして起きたわけではなく、それなりに時間がかかって、今日のようなかなり危機的な状況にまできてしまっている。しかも、振り返ってみますと、その起点がどこにあったかというと、私が右傾化とよんでいるようなことが、最初から猪突猛進というか、なんのブレーキも揺り戻しもなしに一方的に進んでいったかというと、そういうことではない。
むしろ、冷戦が終盤期を迎えていく、冷戦がいよいよ終わっていくというなかで、日本をはじめ、世界、東アジアの政治は、全体として民主化、自由化の方向が明らかであった。にもかかわらず、今日のような状況が起きてしまっている。いったいどうしてこのようになってしまったのかというのが、私自身の大きな関心だ。
右傾化といった場合、なかなか日本ではあまり右傾化という言葉が使われていないところがある。いったい今の政治状況をどう呼べばいいかというところについても、なかなか価値中立的に言うことは難しいと思います。もちろん人によっては、保守化とか、もうちょっと違った言葉で表現を、さきほど、反動という言葉もあったが、私自身も保守も反動も使うんですけれども、どのように現在の政治状況を、たとえば20年、30年振り返って、いま起きている状況を表現するかという議論が、当然あってしかるべきだ。
しかし、私自身はあえて、右傾化という言葉をつかっている。正直いって、出版社によっては右傾化という言葉を表に出すことを嫌うことがある、というふうに聞いています。私が新書を出したのが、岩波書店だったのでなんの問題もなかったが、そういう書店が必ずしも当たり前ではないというのが、今日の政治の現実だ。
私は、右傾化というレッテルをはろうとしているのではなく、単に客観的な座標軸でみたときに、右と左というのは、日本に限らずというかむしろ、世界的に当たり前に行われてきていることであって、その言葉を避けなければいけないという思いがむしろあります。
何をもって右傾化といっているかというと、私は4つの座標軸でみて、そのどれに対してみてみても、過去20年、30年と振り返ってみると、冷戦の終盤期から終わって今日にいたるまで、ざっくりいいますと、ベルリンの壁が崩壊したのが1989年。今年は2016年ですから四半世紀以上たっている。その間の政治をみていると右傾化したとしかみえないといっている。
右傾化を四つの座標軸でみた場合、一つ目はいちばんスタンダードといいますか、もともとフランス革命以来といいますか、きわめて当たり前な右、左は、経済問題で、平等指向なのか、むしろ貧富の差を仕方なし、あるいは望ましいとみなすのかという違いがある。あきらかに日本では貧困が広がっていて、格差社会が大きな問題になっているということにおいて、大きく右にふれたことは間違いないだろう。
それに関連する形でもうひとつあるのは、国家の権威が、権力なのか、個人の尊厳、権利、自由なのかという対立軸もあると思う。この点についても、全体として個人の権利や尊厳が危機にあって、それに対して国家権力が傍聴する傾向にあるということは、今回の件に関してはいちばん関係があるかもしれないが、この点でも右傾化している。
とくに国内社会でみた場合、2つの座標軸があると思う。対外関係でみたら、さらに2つあると思う。再軍備なのか平和主義か。かなり日本に独特な、戦後日本に特徴的な座標軸。しかしながら、戦後、冷戦の期間をふくめて、ながらく改憲か護憲かということが争われてきたように、日本にとってはかなり中心的な概念。いってみれば、革新政党である昔の社会党、共産党になると、平和主義がかなり大きな柱になっていて、場合によっては、経済問題以上に平和主義を守ることが、核心的な関心事だった。
もちろんこの点においても、再軍備路線といったものが、とりわけ、去年、その前の年の閣議決定、解釈改憲をふまえての安保法制とみられるように、再軍備路線に大きくずれてきていることがいえるでしょう。
そしてもう一つ、対外的なことというと、近隣諸国、とりわけいわゆる歴史問題に関して、日本の先の大戦と呼ばれるアジア太平洋戦争において、侵略や植民地支配を受けた国、民族との関係において、和解を志向していくのか、歴史修正主義に傾いていくのか、というのが対立軸としてあるでしょう。この点に関してはもちろん、一連の慰安婦問題、まさにきょうのトピックと通底する形で右傾化が進んできたということが、ここしばらくの間明確なことだ。しかしながら、先に申し上げたように、最初から右傾化にずずずっといったわけではない。むしろ近隣諸国との和解を図ろうとか、あるいはより自由で平等な社会を目指そうという機運がなかったというわけでは決してない。そうだったにもかかわらず、どうしてここまできてしまったのかというのが大きな問題だ。
下線でひいたレジュメの部分は、時代区分というか、私なりにみて、こういった時代に分かれていくのではないか。
いちばん最初には1980年代、冷戦終盤期から、90年代半ばまでが一つの区切りになる。90年代後半もひとつのピリオドがあって、そして2000年代、小泉以降、小泉政権からの変化。2009年から3年3カ月、民主党政権。それからいよいよ、見開きになっている部分、2012年12月に安倍さんが政権復帰を果たして以来今日にいたるまで起きていること。そのなかで起きた植村さんへの攻撃だ。レジュメにそって、1ページ目から振り返りたい。
いちばん最初にある冷戦末期から80年代から90年代半ばまでは、新自由主義、国際協調主義の流れと、私は位置づけている。冷戦が終盤期を迎え、東アジアにおいても、世界全体においても、自由化の流れがあった。中国では、市場開放路線が70年代おしまい、毛沢東、周恩来が亡くなって、鄧小平のもとで市場開放路線が70年代後半から始まって、80年代に本格化していく。韓国における民主化闘争も、80年代に進展をとげていく。
その文脈のなかで、日本の戦後政治も、80年代に入って流動化の兆しをみせている。そのなかで、たとえば、1986年には、自民党がダブル選挙で大勝ちした。中曽根政権だ。わずか3年後の89年には、土井たか子さん率いる社会党が躍進し、連合が新しくできたところで候補者をたてて何人も当選させる、いわゆるマドンナブームが、89年の参院選だ。それ以来、27年たっている。89年というと、昭和天皇がなくなった、ベルリンの壁が崩壊した、中国では天安門事件が起きた。夏の参院選では初めてねじれ国会という状態がおきた。27年間、今日にいたるまで、自民党は一回も単独過半数を参院選で回復していない。今年は下手をしたら、それが初めてそういう状態が起きるといわれている。それぐらい大きな変化がおきたのが89年だった。
93年には、自民党がついに38年かけて一党優位の政権から、内部分裂があって下野する。連立政権で流動的な政治がうまれ、93年、細川政権が誕生する。この間、非常に流動的になり、政治自体も、政界再編ふくめて、どこにむかっていくのか分からない混とんとした状況。まさに流動的な状況がうまれた。ひるがえってみれば、冷戦期は固着化した、固定化した政治構図があった。保革対立というものですね。つねに38年間、自民党が単独、新自由クラブと連立していたごくわずかな期間を除けば、単独政権を維持し続け、それに対して、少なくとも革新勢力があわせて3分の1以上を確保することで、改憲の路線を食い止めていて、しかし政権交代は途中から起きることはないだろうということで、政権交代がないまま続いていた。しかし、自民党は、まんなかによって政権運営していないと岸信介の二の舞になるということで、経済政策を優先させた政策をとるのが、冷戦期の固定化した政治システムだった。
保革ということで、リベラル勢力があまり政治的に存在する余地がなかった。保革の両方にリベラル勢力があるけれども、分断されているし、主導権をにぎるということにはならない。そのかわり、政治的な対立としては、どちらかというと、真ん中に求心力がよっていて、真ん中に寄った政治が行われていた状況があった。いってみれば、自民党ではタカ派の、清和会系、イデオロギー集団としての創生日本もある。そういったものではなく、田中角栄、大平正芳の流れをくむ、比較的穏健な中道保守の政治家たちが主流をなしていた時代だった。それがしかし大きく変わったのが冷戦崩壊。それまでは、冷凍庫にいれたように保革対立構図が固まっていたが、まさに解凍作業が始まってしまった。よくもわるくも。新しい政治がでてくる可能性もあるし、いいものになるかもしれないし、悪いものになるかもしれない。それが、80年代降版から90年代にかけて、ポスト冷戦の流れだった。
この間、日本においても、ご記憶かと思うが、経済的な部分だけではなくいわゆる新自由主義、小さな政府、官から民へというような経済部分だけではなく、社会面においても、当然バブルにむかっていく日本の社会風潮もあったが、全体として、社会と政治の自由化も同時に起きていた。そのなかで中曽根さんが新自由主義政策を始めた。いい部分と悪い部分があった。あとになってみれば、さまざまな傷跡が残っていることが明らかになっているが、当時の雰囲気は、改革のイデオロギーとして、新自由主義が入っていって、政官業の癒着に切り込んでいくという気分で、中曽根行革も始まった側面があった。
これに対応するのに苦慮したのが、革新勢力だった。革新勢力は、まさに革新を目指すことを半ば放棄してしまった形で、ブレーキをかける、たがをはめるということで、自民党が穏健な政治を行うことに存在意義を見いだしてしまうようなことになって、いわゆる国対政治が蔓延し、わりと出来ゲームのような国会審議が行われたり、場合によっては強行採決も、裏取引があった上での法案成立があったことは否めない。
そういった世界政治、日本政治の文脈のなかで、金学順(キムハクスン)さんの証言が1991年8月にでてきた。いわゆる歴史問題、慰安婦問題をいうときに、多くの場合誤解だと思うが、71年間、ずっと歴史問題、慰安婦問題があったと勘違いしている、とくに若い人がいるが、決してそんなことはない。というのは、日韓基本条約が合意されたときや、日中国交正常化なされた時、さまざまな問題というのは、当時の、民主化、自由化以前の政体なので、軍部独裁、中国共産党の独裁のトップが、日本側と政府レベルで合意すればことがすむ時代だった。
緩んでくるのが80年代以降。教科書問題にしてもいちばん最初に出てくるのは82年ぐらい。それぐらいからようやく歴史問題が政治問題として表にでてきた。慰安婦問題も91年、キムハクスンさんの証言に端を発して、もちろん前線で報道されていたなかに、植村さんもいた。
当時は、日本の比較的リベラルな宮澤政権、河野官房長官。その中で、保守的な立場からとはいえ、一応和解を目ざす動きとして、河野談話がでてきた。それ以前の宮澤談話が教科書問題で1982年にあったが、だいたいタイプが似ている。自民党のアプローチとしては、真実の探求を一生懸命やろうという話ではやはりない。そこまではいかない。しかし近隣諸国の国民感情に配慮しなければいけない。中途半端といえば中途半端。そういう立場から歴史問題にアプローチして、ことを荒立てないようにして、お互い納得できるような結果をみいだそうというアプローチが当時は特徴的だった。一方では、もちろん歴史にきちんとむきあうという姿勢がかけているという批判も可能だし、いまの安倍政権よりはましだろうともいえる。
当時の文脈として、忘れてはいけないのは、日本がバブル、冷戦が終わっていくなかで、ソ連が負け、アメリカが勝ったということになっているけれども、勝ったアメリカも疲弊しきっている。そのなかで、日本がこれから安全保障の面で、もっと世界的な役割をもっと大きく担っていく必要があるんだという政治エリートの合意のなかがこれが進められた部分もあった。
近隣諸国との和解なくして、自衛隊を海外に派遣することはできないだろうというのが、当時の自民党の政治家たち、官僚の見方として支配的だった。
その後の細川さんの発言とか、慰安婦の記述が高校教科書になされるとか、最終的には96年6月、共同通信だったと思うが、スクープが出て、中学教科書7社全社、1997年から使う合格した教科書すべてで、慰安婦の記述がなされるということが前年にあきらかになった。そのへんが、保守も含めた自由化傾向のひとつの頂点になってしまった。
私自身もそうだが、20数年前、いきていて、いろいろ政治の記憶がある。あの時代からどうして今の時代がおきてしまったのかと思う。四半世紀の間に、ここまでの大きな変化がおきるのは、なかなか想像しづらかった。すくなくとも河野談話から村山談話の流れにきていたときは、これから過去と向き合ったり、女性の社会、政治における地位にしても、平等にむかっていくのではないかということで、人権の部分もふくめてさまざまな改善がなされていくのではないかというムードがあった。
しかし、暗転が始まるのが、90年代後半。革新勢力が息が絶えるというと大げさだが、非常に弱体化した。自社さ政権で、村山さんがやれるところまでやってがんばるわけだが、その後の社会党が今日にいたる低迷傾向を進んで言ってしまう。
共産党が、近年すこし持ち直しているが、小選挙区制が導入され、2000年代からとりわけ勢力が弱まっていって、かつての革新勢力が、政治勢力として自民党にたがをはめるという構図が崩れはじめる。
90年代後半は、対米追随路線の転換と、歴史主義バックラッシュがセットで始まる。97年というのは、バックラッシュ元年とも呼べる年になった。いわゆる「つくる会」が正式に発足し、亡くなった中川昭一さん、安倍晋三さん、衛藤晟一さんなどが中心をになって、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」、まさに教科書に圧力をかけていくということで、慰安婦問題も含めて歴史の記述がなされるようになってしまった教科書を、なんとかしてはねのけようという動きが始まった。日本会議、最近ではかなり有名になった。国会議員懇談会ができたのも、97年。戦後生まれ、ポスト冷戦世代へ自民党のなかで政権交代。95年で戦後50周年。戦争を体験した世代が高齢化で退き、世襲議員の二代目、三代目がでていく。彼らの多くは戦後生まれで、安倍さんが典型だが、ポスト冷戦期に、革新勢力、社会主義陣営が弱体化したなかで、キャリアを築きだした政治家が全面にでてくる。新しいタイプのタカ派、右翼政治家が登場する形でバトンタッチがなされる。
自民党の国会議員の調査をやったことがあるが、はっきり分かるのは、いわゆるハト派、リベラル系の自民党議員は、世代交代に失敗した。それに対して、右派の政治家は世代交代に成功するという奇妙な現象がある。
戦争体験があってリベラルだった、和解しなければならないという問題意識を抱えていた人達は、その後継者にあたる宏池会系や、世襲議員においても、決して戦争を直接体験した世代の政治家の気概や問題意識を受け継がずに、なまぬるい感じの、谷垣さんであるとか、岸田さんであるとか、いまいる宏池会系の人達、河野太郎さんもそうだが、安倍さんたちと事を争うつもりはまったくない。最後は、野中さんとか、父親を亡くした古賀誠さんとかが退場してく過程で、その手の政治家は息絶えた。
中曽根さんに比べても、夢想、妄想で歴史を書き換えてしまう戦後生まれの右翼政治家がでてくる。かつての自民党と今の自民党が似ても似つかないのが、今の自民だ。それがいよいよ全面にでてくるのが小泉政権だ。
橋本、小渕、森さんと続いた。森さんは「神の国発言」があったが、あれは新党政治連盟での発言。今から思えば、これからくるものの予言的なものをやった。だが、本人は幹事長など古い政治をやってたまたまトップまで上り詰めた方ですから、小泉、安倍のような破壊的な政治家とは違う。歴史の巻き戻しとか、右傾化についてはそんなにたいしていない。むしろ橋本さんや、小渕さんとだいたい似たようなペースできていた。
これが、ががっと進むのが2000年代前半の小泉さん以降だ。いよいよ、つくる会の教科書が検定を通過したり、何より大きかったのは靖国参拝を続けたこと。そしてとにかく、アメリカとの関係さえよければ、中国、韓国との関係は後からついてくるんだと、公式の記者会見でブッシュ大統領と並んでいってしまったぐらい、きわめて淡色な安直な外交政策に転換していく。対米追従一本槍で、アジア外交の実質が相当に空洞化してしまうのが小泉政権の大きな特徴だ。そしてまた、安倍晋三さんを代表とするように、戦後生まれのポスト冷戦の政治家たちを重要閣僚として処遇して、次の世代のリーダーとして準備したのが、小泉さんに他ならない。麻生太郎さん、平沼たけおさん、中川さん、石破茂さん。タカ派、右翼の政治家たちを次のリーダーとして、全面に重要閣僚ポストに処遇したのが小泉さんだった。
同時に、抵抗勢力として、刃向かうような人達は除名にしたり、刺客を放ったりして、中央集権化を大きく進めたのも当然彼だった。教科書でもついに2006年、10年かけて、安倍さんたちは慰安婦の文字を中学の歴史教科書からけえさせることに成功した。2007年には在特会が発足する。ネトウヨ、それまではインターネットの世界にいた人たちが、社会の表舞台にでてきてしまうということが、小泉政権から安倍政権にかわるあたりででてくる。
民主党政権は時間がないので割愛する。若干、揺り戻し的にといいますか、政権交代がおきて、かつての新自由主義、国際協調主義的な部分の揺り戻しが若干あったが、あっという間に官僚や、アメリカのいわゆるジャパンハンドラーといわれる日本政策関係者に阻害される形で退いてしまう。
ついに表れてしまったのが、歯止めなき寡頭支配、少数派支配だ。ついに、自民党の右派勢力に対する歯止めが、政党システムのなかにない、という状況が戦後生まれてしまった。民主党政権が野田首相のもとで完全に信任を失って下野する形で起きてしまった現象だ。
それまでは、革新勢力がたがをはめていた。革新勢力が対応できなかった。しかし、自民党のなかにはまだ、宏池会、平成研の流れがあってなんとか体裁を保っていた。しかしそれが小泉さんたちによってついに駆逐された。日本の政治のなかでは、比較的リベラルな声、中道左派的な声は、民主党のなかに集中して、今度は政権交代でバランスをとるんだという話になっていたのに、民主党政権がああいった形で残念な結果に終わった。ついに、野党らしい野党が存在しない政治状況が、安倍さんが日本を取り戻すと行った時に生まれた。
これが非常にはっきり表れているのは、麻生政権が負けたときの自民党の得票数に、安倍さんが2012年12月に戻ってきた時に大勝ちした得票数は、とどいていない。いまにいたるまで、麻生さんが負けた時の得票数に届いていない、回復してないのにもかかわらず、何度でも圧勝することができる。衆院にいたっては公明とあわせて3分の2を確保できるのが容易にできてしまうのは、もちろん小選挙区制の作用のもとで、野党が受け皿として存在していない状況で、投票率が低迷する。けっして自民党に支持がもどっていないのにもかか
わらず、やり放題できる状況が2012年に生まれた。
いよいよ2013年7月の参院選で、いわゆるねじれを解消してから、安倍さんはご褒美のように靖国参拝したり、2014年に入ると、いよいよ歴史修正主義の路線にかじをきっていくというか、成果を出そうと動いていく。
その間、マスコミへの介入が強化されていた。籾井勝人会長就任が14年1月。その前年には、百田直樹さん、長谷川みちこさんが経営委員として押し込められている。
まったくこのタイミングですね。2014年1月末、週刊文春が植村さんを攻撃する記事を掲載し、ここから植村さんへの攻撃がどんどん強まっていった。さらに拍車をかけたのは、河野談話の作成過程を見直したという検証の報告がでて、それをうけて、朝日新聞が吉田証言の関連記事を取り消した。さらに植村さん、北星学園への攻撃が激化した。
そんななかで、安倍さんは改造内閣をして、山谷えりこ、稲田ともみら、女性閣僚5人中、3人がごりごりの右翼。有村さんは新党政治連盟推薦の方でもある。いよいよ本腰を入れてくる。2014年10月には、自民党が日本の名誉侵害を回復するための特命委員会が設置された。植村さんに初めてお会いしたのが、ちょうどこのころだった。外国特派員協会で(マケルナ会設立の)会見をしたのがちょうどこのころだったと思う。
読売新聞が、性奴隷という表現が不適切だったので謝罪して撤回します、という奇妙な英文記事が出た。これはデイリーヨミウリがかつて英文記事であったが、そこでかつて「セックススレイブ」と言う言葉を使ってごめんなさいと。きょうは時間がないので、のちほど関心がある方がいらしたら、補足させていただきますが、私自身も外務省に名指しで誹謗中傷を受けるということが、NYTとワシントンポストの取材に応じて、こういう政治背景があるのではないかと言ったら、NYTとワシントンポストの記者たちに対して、「中野なんてどこの馬の骨かわからないやつを取材している場合ではない」という圧力といいますか、申し入れをしまして、それに非常に反発したワシントンポストの記者が、かえって私に教えてくれたり、いろいろなところで言い回って、問題になってしまうという、非常にお粗末な話ではあるんですけれどもそういう話もあった。
この時期に海外においても、日本では彼らからみれば、朝日新聞が屈服し出して、第三者委員会に岡本行夫さんや北岡伸一さんを入れて、今後の朝日新聞を、とやっていましたから、朝日新聞のせいで性奴隷という誤解が広まったと、朝日も世界であやまれとしきりに主張していた時期だった。
しかし、これは政府にとっては大きな失敗につながった面もある。いま振り返ってみても、植村さんご自身がどうお感じになっていうかおうかがいしたいところだが、12月にNYTの大きな記事がでた。マーティン・ファクラーさんという特派員が植村さんを取材した。この反響がかなり大きかった。アメリカの知識人、とくに大学関係者、日本研究をしている人達。みんな親日派、日本の文化が好きで研究している人達が多いですから、こんなことが今の日本に起きているということで、非常に危機感を持った。これはいけないということで、植村さんや北星学園を守らなければいけないという世界的な機運が、かえって政権の勇み足、キャンペーンの激化がかえって、失敗に終わる部分があった。
しかしながら2014年12月に解散総選挙をやった。自民党は重点政策集、公約集のなかにこういったことを書いた。「虚偽にもとづくいわれなき非難にたいしては、断固として反論し、国際社会への対外発信を通して、日本の名誉国益を回復するために行動します。日本の正しい姿や多様な魅力を世界に伝える拠点として、主要国へのジャパンハウス設置をする。戦略的発信機能を強化します」。虚偽にもとづく非難は、国連のクマラスワミ報告を攻撃している。慰安婦制度が軍の性奴隷制度であるとはっきり書いていて、日本政府は許し難い誤解だという立場をずっと持っている。これを広めたのは、朝日新聞だと一貫して主張している。外国特派員協会の方はみんないうが、「朝日新聞はそんなに影響はない」と。(会場笑) そんなに朝日新聞を読んでいませんと。朝日にとっては残念な話だが。
私自身も外国特派員協会の方とつきあいがあるから、よくわかるが、メディアは全体的に世界的に不況。90年代以降、日本だけではなく、出版不況はどこでも同じ。ネット化が進んさらに大変。日本の特派員はたいがい朝鮮半島の特派員も兼ねている。ほとんどは東京に住んでいて、ソウルにでかけたり、何かあったら北朝鮮にいって取材している。なかには韓国語のほうが上手な人も多々いる。朝日をよんで、韓国の政治を研究する人はまずいない。実際に元慰安婦の方達に当然取材されていますから、まったくの無理筋の話だが、政府は一貫してこういう立場でやっている。
2015年1月に入ると、歴史修正主義キャンペーンがいきすぎたことで、海外でも批判が強まっていく。さきばしって申し上げるが、北星や植村さんに対するバッシングにどう立ち向かったのか考える時に特徴的だったのは、国レベルの動きよりも、やはり北星を中心とする札幌、北海道という地域が非常に大きな役割を果たした。やはりこれは正直、札幌でなければ、ここまでの動きは難しかったかもしれない。逆にそれだけの地域性があるなかで起きた事件だったので、連帯の輪が広がっていった。
もう一つは国際的な連携もかなり大きな意味を持った。外国特派員もそうだが、のちに植村さんがアメリカの大学を講演にまわったが、その受け皿になった方たちを含めて、歴史学、日本研究をされている方たちが、この問題を我が問題として声をあげたことが、日本政府にとってはかなり痛手だった部分もやはりある。というのは、アメリカの反応は気になるわけです。アメリカ政府に影響力がある、とりわけ有名大学の先生たちが声をあげることは彼らにとって大きな損失になった。地域社会とグローバルな連帯がかなり大きな意味を持った。
そういうのはあるんですけど、残念ながら2014年12月の衆院選で自民党が勝ったことで、歴史修正主義キャンペーンが日本の公式な政策になった。予算もつけてやっている。そういった意味では、かなり深刻な事態が続いている。その歯止めの一つになっているのが、アメリカの反応だ。
安倍談話が典型的にそうだ。村山談話とくらべて向いている方向がまったく違う。安倍談話はアメリカにむかって書いた。村山談話が中国、韓国を中心にしたアジア諸国にむけて出したものであるのと対照的。アメリカが許す範囲で歴史を書き換えることを続けて、いまにいたるのが残念な現実だ。
昨年末の日韓政府のいわゆる「合意」に関しても、アメリカとの圧力の関係で理解できる。直近でも、伊勢神宮を拝見した写真であるとか、いろんな手をつかって、どんどんむいている方向としてやってきている。なかなかこれは難しい時代に相変わらずあると受け止めざるをえない。
時間がきたので、そろそろおしまいにしたい。まとめの部分で、下のいくつかの部分だけ。6番目からちょっといいですか。安保や経済面での対米追随とのバータで、アメリカにどの程度の歴史書き換えを許してもらえるかということで、外務官僚や自民党政権は動いているように私にはみえる。TPPはやるわ、辺野古基地は推進していくは、集団的自衛権はやるわで、そうとう程度お目こぼしをいただけるほど貢ぎ物を出している。だから、オバマ政権にもかかわらず、安倍政権からみれば得たいものをえられる状況になっている。
もちろんアメリカにおいても慰安婦問題は、女性の人権問題、軍事性暴力の問題として受け止められている。植村さんや北星学園に対する攻撃も、言論や学問の自由、人権問題ととらえられている。単純にアメリカが、というのはなかなか難しい。いわゆる日本政策関係者が、自民党と一緒になって歴史の書き換えを進めていたり、ある程度言論弾圧したほうが話がとおりやすいと思っている一方で、アメリカも含めてリベラル勢力がありますから、そういったところとの連携を強化することが必要だ。
危惧しているのは、北星学園のケースが、これで最後になればいいが、今後も参院選の後にもし改憲するということになったら、改憲勢力あわせて3分の2以上になったら、学問の自由、教育現場への介入はおそらく強化されるのはほぼ間違いないだろうと思っている。普通に学校、メディアにおいて自由に議論されることが彼らがいちばん忌み嫌うことになるので、その点は相当危ない状態がまだ続いていると言わざるをえない。
しかし、彼らが内部崩壊といいますか、自滅する可能性はないわけではない。この間、グローバルな連携も含めて、こういった右傾化傾向を止めていこうという市民社会の新しいつながりも非常にめざましいものがありますので、合わせ技で思いがけず早い段階で、この政権が倒れる可能性もありえる。しかし、私がきょう紹介した分析が間違ってなければ、これはかなり構造的な変化のなかで起きていることなので、政党システムのバランスを回復することをかなり時間をかけてやらないと、危険な状況はいつまたぶり返すかわからないという状況だ。ご静聴ありがとうございました。
凡例▼人名、企業・組織・団体名はすべて原文の通り実名としている▼敬称は一部で省略した▼PDF文書で個人の住所、年齢がわかる個所はマスキング処理をした▼引用文書の書式は編集の都合上、変更してある▼年号は西暦、数字は洋数字を原則としている▼重要な記事はPARTをまたいであえて重複収録している▼引用文書以外の記事は「植村裁判を支える市民の会ブログ」を基にしている
updated: 2021年8月25日
updated: 2021年10月18日