捏造ではない――その根拠 陳述書・意見書 1
和田春樹氏意見書
意見書
2019年9月17日
和田 春樹(東京大学名誉教授)
私はロシア史、朝鮮史、東北アジア史を研究した歴史学者であり、大学を卒業した1960年以来1998年の定年退職時まで東京大学社会科学研究所に勤務した。退職前の2年間は同研究所の所長をつとめた。1995年、政府が、日本軍慰安婦として精神的肉体的に被害をうけたアジアの女性たちに謝罪と償い(贖罪、atonement)事業を行うために設立した財団法人、「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)の呼びかけ人になるよう、招請をうけ、同意した。この財団が2007年に解散するまでの12年間、呼びかけ人、運営審議会委員、同委員長、資料委員会委員、基金理事をつとめ、最後の2年間は専務理事、事務局長として働いた。アジア女性基金での文書、パンフレットの作成に多く参加した。そのような者として、私は日本政府がアジア女性基金の事業をすすめるさい、慰安婦問題をどのように認識し、どのような定義をもって事態に対応したかを詳細に承知している。そのような立場から、慰安婦の定義と慰安婦を挺身隊とよぶ呼称について意見を述べるように求められたので、ここに表明するものである。
1 慰安婦の定義
アジア女性基金は、河野洋平官房長官談話にもとづいて、1995年に日本政府によって設立された。そのときから2007年の解散時までに、韓国、台湾、フィリピンの慰安婦被害者、それぞれ60人、13人、211人に、各々総理の謝罪の手紙、理事長の手紙、国民募金からの償い金200万円と政府拠出金による医療福祉支援(韓国台湾300万円相当、フィリピン120万円相当)をお渡しした。インドネシアで抑留中、慰安婦として被害にあったオランダ人79人に対しては各々医療福祉支援金300万円が支払われた。インドネシアの慰安婦被害者に対しては、同国政府の要請に応じて、被害者個人への事業は行われず、老人福祉施設建設のために、政府拠出金から3億7000万円が提供された。
この事業をおこなうにあたって、アジア女性基金は日本政府との協議の上、事業対象者としての慰安婦についての定義を定めた。この定義は、1995年10月25日に基金の活動を説明するために出版されたパンフレット『「従軍慰安婦」にされた方々への償いのために』の冒頭に発表された。その後、現実の事業の展開の中で微調整がくわえられたが、基本的に基金の活動の終了まで維持された。当初の定義は次のようなものである。
「『従軍慰安婦』とは、かつての戦争の時代に、日本軍の慰安所で将兵に性的な奉仕を強いられた女性たちのことです。」
事業過程での調整が加えられた結果、この定義は最終的には次のようになった。これは基金が作成したデジタル記念館「慰安婦問題とアジア女性基金」の展示の冒頭に記されている。
「いわゆる『従軍慰安婦』とは、かつての戦争の時代に、一定期間日本軍の慰安所等に集められ、将兵に性的な奉仕を強いられた女性たちのことです。」
この定義で決定的なことは、「日本軍の慰安所」、「日本軍の慰安所等」に集められた女性であるという認定である。「慰安所」は、その当時の軍のさまざまな文書では、「特殊慰安所」、「性的慰安所」、「性的慰安ノ設備」などと呼ばれている。軍が戦争遂行のため、軍の将兵の性的欲望を充足させ、一般婦女に対する強姦などの行為を減らす等の目的のために、戦争の現場、軍の駐屯地の内外に設置した設備である。
日本軍慰安所にはさまざまな方法で女性たちが集められた。女性たちが朝鮮の農村や都市から官憲の手によって暴力的に連行されたということも多く語られたが、アジア女性基金の調査では、朝鮮半島においてはそのような事実を確認していない。日本政府が集めた資料は、アジア女性基金の手によって、悉皆的に出版されている。そこからは、女性たちを慰安所に集めたいくつかの事例が確認される。
第一は、1938年に南支派遣軍の慰安所設置のため、少佐級の人物が東京に派遣され、陸軍省、内務省警保局に女性集めの協力を求めた。警保局は各地の警察に人員を割り当て、業者にもとめて、「醜業婦」を募集させた。このとき、400名の女性が集められた。警保局はこのさい、日本人慰安婦を募集する際には、(1)すでに「醜業婦」である者、(2)21歳以上であること、(3)親権者から海外渡航の承認をとりつけることという条件を守ることを義務付けたとあった。
第二は、太平洋戦争開始後の1942年には朝鮮から女性たちの送り出しがあった。これは米軍の資料の中から確認された。1942年に南方軍から朝鮮軍に要請が入り、憲兵が業者を集め、目標数字を割り当てた。業者は親に金を渡し、女性には南方によい働き口があるというような言葉で、納得させ、港に全員をあつめ、軍用船団にのせたという。日本での募集の3条件はここでは問題にされていない。7月10日釜山港を出港した7隻の船団には703人の朝鮮女性が業者とともにのせられて、ビルマに向かったのである。ビルマでは現地軍の指示をうけ、各地へ送られた。のちに韓国でこのときに船にのった朝鮮人業者の日記が公開され、そこにこの船団は第4回目の慰安婦船団であったと書かれていた。1回700人として4回なら、2800人となる。これだけの女性が太平洋戦争の第2年目に朝鮮から南方の戦場に送られたことになる。
第三は、フィリピンのケースである。ここでは、日本軍の兵士が「慰安所」の代替物として、自分たちの部隊の近くの建物に、現地の女性を拉致してきて、監禁し、連日強姦をつづけるような事例が多く見られた。フィリピンでアジア女性基金の事業の対象となった被害者211人のほとんどがそのような犠牲者であった。アジア女性基金が事業の展開の過程で「慰安婦」の定義を修正して、「慰安所等に集められ」としたのは、このフィリピンのケースの被害者を「慰安婦」として、事業対象者にふくめたためである。
第四は、インドネシアでオランダ人収容所の管理者である日本軍人が、収容されているオランダ人の女性を選び出し、強制的に軍の慰安所に送ったことが知られている。
軍の慰安所は、当然ながら、通常の公娼制度を前提として、制度設計されたものであろう。しかし、戦争を行っている軍が戦争をしている軍の将兵のために戦場の近くに組織した施設であれば、そこで女性たちがさせられた行為は通常の公娼制度にもとづく売春とは異なり、さまざまな強制の要素をともなう行為であったと考えられる。そのような状況の中で自分たちは日本軍の将兵に性的な行為、奉仕を強いられたと感じ、苦痛と感じたケースが普遍的に認められる。
フィリピンの場合は、通常の軍慰安所と異なり、純然たる強制性交のくりかえしが行われたのであり、強制性の度合いは極度の域に達していた。女性たちの受けた苦しみは想像を絶するものであったと考えられた。
いずれにしても、慰安婦犠牲者はすべて、日本軍との関係で、「性的慰安」の奉仕を強制され、被害をうけ、苦しかったと訴える人々であった。であればこそ、日本国家はこの人々に対し、総理大臣の手紙を送り、次のように、おわびと反省の気持ちを表明した。
「このたび、政府と国民が協力して進めている『女性のためのアジア平和国民基金』を通じ、元従軍慰安婦の方々へのわが国の国民的な償いが行われるに際し、私の気持ちを表明させていただきます。
いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。
我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております。」
この手紙に署名したのは、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎の各総理大臣である。
アジア女性基金は2007年3月末日をもって解散した。この直前に基金の村山富市理事長は、「石川の教育を考える県民の会」会長諸橋茂一なる人物から、質問書を受け取り、3月29日に損害賠償の訴訟をおこされた。この人物は、村山理事長が総理時代に村山談話を出したことが「我が国の名誉と誇りを大きく傷つけたのみならず、我が国の国益を大きく損なった」「国賊行為」であるとした上で、「慰安婦」は「そもそも(当時は合法であった)『売春』をして破格の収入を得ていた」人々であるのに、その人々のために多額のお金を与える「組織を運営する為に」「多額の国費を無駄遣いしたことは国費の濫用であり、全く言語道断である」と決めつけ、破綻している河野談話にもとづいて事業をし、国費を乱費したので、国庫に160万円を返納し、この人物の精神的苦痛に対して、10万円の慰謝料を払えという損害賠償を請求してきたのである。
私は基金の専務理事として、慰安婦が「『売春』をして破格の収入を得ていた」人々であると断じるこの人物の主張は、アジア女性基金の事業の根幹をなす慰安婦認識を完全に否定するもので、到底容認できるものでないと判断した。しかし、解散が2日後に迫っている状態で、基金の事業を擁護する法廷の闘いを展開することはできなかった。そこで、この訴訟は弁護士事務所に対処を委任することにせざるをえなかった。実質的な反論権を行使することのないままに終わったのである。なお訴訟は2008年2月、最高裁で原告敗訴が確定した。
さらにこの年、2007年6月14日、ワシントン・ポスト紙に日本の団体、歴史事実委員会の意見広告“The Facts(これが事実だ)”が掲載された。櫻井よしこ氏らが執筆し、西岡力氏らが連署したこの意見広告は、「日本陸軍に配置された『慰安婦』は、一般に報告されているような『性奴隷』ではなかった。彼女たちは、当時世界中どこにでもありふれた公娼制度の下で働いていたのである。」と述べていた。私は、米国の新聞に掲載された日本の団体の意見広告の中で、慰安婦は「売春婦」だという定義が打ち出されていることを知り、衝撃をうけた。これは世界に向けて、1995年以来、日本政府とアジア女性基金がつくりあげてきた慰安婦認識とそれにもとづく事業活動を全否定すると主張しているものと考えられた。
しかし、アジア女性基金はすでに解散しており、この意見広告に反論を表明するすべはなかった。その当時は日本政府とアジア女性基金の慰安婦認識は、アジア女性基金の解散後、ウェッブ上にのこしたデジタル記念館「慰安婦問題とアジア女性基金」の中に展示されていたのである。
その後、現在の安倍晋三総理大臣のもとで、2015年12月28日には、日韓外相会談後の記者会見において、慰安婦問題についての日韓両政府の合意が発表された。岸田文雄外務大臣は韓国に対して、「慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、かかる観点から、日本政府は責任を痛感している。安倍内閣総理大臣は、日本国の内閣総理大臣として改めて、慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを表明する」と表明した。1995年以来の日本政府とアジア女性基金の慰安婦認識はかくして日本国家の公式の立場として再確認されたと言っていい。
したがって、慰安婦を「公娼制度の下で戦地において売春に従事していた女性」にすぎないとする記述を本裁判札幌地裁判決に見出したとき、当惑する気持ちを禁じえなかった。弁護団のもとめに応じて、意見を表明することにしたのは、以上のような判断の故である。
2 慰安婦を挺身隊とよぶ呼称について
この慰安婦という存在を認識し、慰安婦問題が日本政府によって取り組まれるべき問題であることを自覚する過程で、日本軍慰安婦はしばしば「挺身隊」とよばれ、問題として認識するように求められた。日本国内でも1990年代半ばまで、慰安婦問題について「女子挺身隊の名で」とか、「挺身隊の名の下に」とかと語られることが一般的であった。そこで、この「挺身隊」という呼称を吟味することは、日本政府とアジア女性基金にとって避けて通れないことであった。
韓国で「慰安婦」問題を提起し、アジア女性基金が発足すると、厳しい批判をくわえ、その速やかな解散を求めて、交渉をつづけてきたのは、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)であった。この団体は、1990年11月16日に結成され、基金が誕生した1995年当時もそのままの名称で活動をつづけていた。
交渉相手の団体が「慰安婦」でなく、「挺身隊」を名称にいれていることには、アジア女性基金の側も当然意識していた。その結果、1996年10月に「慰安婦」関係資料委員会が生まれて、調査研究を行うようになると、「慰安婦=挺身隊」という呼称の問題をとりあげて、研究することになった。その結果、高崎宗司氏が「『半島女子勤労挺身隊』について」という表題の論文をまとめ、『「慰安婦」問題調査報告・1999』に発表するに至った。高崎氏は当時津田塾大学教授で、アジア女性基金の運営審議会委員、同資料委員会委員長であった。
高崎論文によれば、太平洋戦争の危機段階で、1943年9月13日、日本政府次官会議が「女子勤労動員ノ促進ニ関スル件」を決定し、それに基づいて女子勤労挺身隊が日本の内地でも朝鮮でも組織された。「一四歳以上の未婚者等の女子」を動員して、「女子勤労挺身隊」を結成させ、「航空機関係工場、政府作業庁」などに派遣したのであった。44年2月までに日本全国では16万人が編成されたといわれる。朝鮮ではおくれて募集がはじまったが、44年4月には第一陣、慶尚南道隊100人が日本本土の沼津市の工場に派遣されている。このような事実を確認して、高崎氏は、「挺身隊」の名で「慰安婦」にされたケースを発見できなかったと述べている。しかし、高崎氏は、朝鮮では「未婚者等の女子」という募集要件に強い警戒心、反発がおこり、44年4月には、挺身隊動員からのがれるために結婚をいそぐ風潮が現れた。『京城日報』44年4月22日号は「街は早婚組の氾濫」と報じている。この動きは、挺身隊に行くと、慰安婦にされるという噂と結びついていた。総督府が提出した44年6月の資料には、「未婚女子ノ徴用ハ必至ニシテ中ニハ此等ヲ慰安婦トナスガ如キ荒唐無稽ナル流言巷間ニ伝ハリ」とある。このようなパニックが広がる中で、当局が否定すればするほど、女子挺身隊と慰安婦は一体のものであるという考えが広まったのである(高崎宗司論文、44、47、57-58頁)。
挺身隊に動員された娘たちが慰安婦にさせられたという観念は検証されないまま、朝鮮社会の伝説となって定着した。実際に挺身隊行きをのがれるために学校を退学して、結婚した人々は自分たちだけが災難を免れたといううしろめたさを感じていた。挺対協の初代代表をつとめた梨花女子大教授尹貞玉氏は、そのような経験をしばしば語ることがあった。
1945年以後の韓国で、日本軍慰安婦を「挺身隊」とよぶことが定着するようになったことについては、以上のような事情があったためであろう。しかし、これにはもう一つ別の事情が影響したかと考えられる。朝鮮戦争当時、韓国軍は旧日本軍にならって、軍の将兵に対する性的慰安のために、「慰安婦」を確保し、「慰安部隊」を組織したことが韓国の歴史研究者の研究で明らかにされるようになった(金貴玉「朝鮮戦争と女性――軍隊慰安婦と軍慰安所を中心に」立命館大学シンポジウム発表文、2002年)。そして停戦後韓国に駐留した米軍の基地のまわりに集まる売春婦がこの延長線上で「慰安婦」とよばれるようになったのである。1957年の新聞を見ると、「慰安婦が嬰児誘拐」(京郷新聞、2月11日)、「二米軍慰安婦身勢悲観自殺」(東亜日報、7月21日)などの記事が出ている。1981年には「基地村慰安婦、米軍相手に九億ウォン分のヒロポン」を密売という記事がある(東亜日報、9月26日)。朝鮮日報を「慰安婦」で検索すると出る記事は1957年から1976年までに88件あるが、すべて米軍将兵を相手とする売春婦の記事であった(和田春樹『アジア女性基金と慰安婦問題』(明石書店、2016年))。
そこで、1980年代末から、韓国で新しく日本軍慰安婦に注目を向け、その人々の問題を社会化しようとした記者たちは、被害者を「慰安婦」とは呼ばず、「挺身隊」と呼ぶことに傾いたのであろう。1984年3月、タイに永住して故国と断絶していた元日本軍慰安婦の盧寿福氏がバンコックとソウルを結んだテレビで妹と対面し、5月にソウルに一時帰国した時には、「挺身隊ハルモニ」として話題になった。中央日報が5月17日から31日まで11回にわたり連載したのは、「私は女子挺身隊――盧寿福ハルモニ恨の一代記」と題されていた。
1984年8月24日、韓国キリスト教協議会女性委員会と韓国教会女性連合会は全斗煥大統領に次のような書簡をおくり、「女子挺身隊」に対する謝罪を日本にもとめるように要求した。「両国が友好関係を結ぼうとするなら、すみやかに妥結しなければならない問題として女子挺身隊の問題に対して日本は謝罪しなければならない。・・・日帝末期韓民族に加えられた収奪政策の一つが『挺身隊』問題である。『挺身隊』という名で強制的に女子たちを動員し、軍慰安婦におくり、性の道具として悲惨に蹂躙した。・・・このまま黙過することはできない。ただちに謝過をうけなければならない」。これは慰安婦問題を韓国で最初に提起した教会女性の声であった。
韓国で1987年、民主革命がなったあと、「慰安婦」問題をとりあげようという動きはかつてなく高まった。その口火を切ったのが、尹貞玉教授の『ハンギョレ』新聞(1990年1月4日、12日、19日、24日)への寄稿「梨花女子大尹貞玉教授『挺身隊』怨恨のこる足跡取材記」であった。この寄稿では、本文中は「慰安婦」という呼称がつかわれたが、表題には「挺身隊」という呼称が使われたのである。この寄稿が呼び起こした反響の中で、同年5月18日、梨花女子大からのはたらきかけで、韓国教会女性連合会、韓国女性団体連合、ソウル地域女子大生代表者協議会らが共同で記者会見をして、声明を発表した。盧泰愚大統領の訪日の際に提起されるべき問題を列挙した中で、「日本の過去の犯罪行為中、特に隠されている挺身隊問題に対する日本当局の謝罪と賠償がかならずなされなければならない」と主張した。10月17日、討論を積み重ねてきた韓国教会女性連合会、韓国女性団体連合会、トゥレバン、大韓YWCA連合会、ソウル地域女子大生代表協議会、アジア女性神学教育院、梨花女子大学校女性学研究会、挺身隊研究会など8団体が慰安婦問題で、海部俊樹首相と盧泰愚大統領の双方に公開書簡を出した。そこには、関係者の「証言や元慰安婦たちの証言によれば、朝鮮人女性たちは『女子挺身隊』という名で、あるいは雑役婦の仕事だとだまされて、さらには田畑で働いているところを人狩りさながらに連れて行かれ、各戦場に設けられた軍隊慰安所の慰安婦にさせられたといいます」と述べられた。そして「日本政府は朝鮮人女性を従軍慰安婦として強制連行した事実を認めること」ではじまる6項目の日本政府に対する要求が提起されていた。この書簡を出した8団体が、11月16日に韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)を結成したのである。
団体が設立された段階では、挺対協は国内に生き残っていた慰安婦被害者のハルモニの誰一人とも接触ができていなかった。その状況が翌91年には劇的に変わった。挺身隊問題対策協議会の設立が報じられると、女子勤労挺身隊に動員された女性とともに、慰安婦にされた女性たちがつぎつぎに連絡をとってくるようになったのである。
その第1号が金学順氏だった。彼女は1991年8月14日、挺対協で記者会見した。慰安所で日本軍の将兵に性的な奉仕をさせられた女性が、みなの前に進み出て、「自分は被害者だ」と述べ、「わが国の政府が一日も早く挺身隊問題を明らかにして、日本政府から公式の謝過を受けなければならない」と語った。金学順氏の登場は慰安婦問題を世にだすのに決定的な影響を与えたのである。
アジア女性基金の関係者は金学順氏の家を訪問し、基金の目的、事業の内容を説明したが、彼女は、自分はこの事業をうけないと明言した。それは残念なことであったが、金学順ハルモニが名乗り出て、日本政府に対して自身の言葉で謝罪を要求されたのはアジア女性基金にとって重要な出来事であった。基金の理事長が慰安婦被害者に送った手紙には、「貴女が申し出てくださり、私たちはあらためて過去について目をひらかれました。貴女の苦しみと貴女の勇気を日本国民は忘れません」と書かれている。その気持ちは最初に名乗り出た金学順ハルモニにも向けられている。
日本軍慰安婦がその時期に「挺身隊」と呼ばれたのは、朝鮮の歴史的事情の流れの中で理由のあったことである。慰安婦問題が社会的に問題として認識されてくる過程に注目するとき、「挺身隊」という名称が、慰安婦であった人々が名乗り出るのを心理的に容易にしたという面があったことは否定できない。その名乗り出た人々のことを報道するのに慰安婦と呼んだり、挺身隊と呼んだりして、混乱があったとしても、被害者の登場を報道したことそのものに社会的意義があったのだということを認めるべきである。
このことと関連して、私は2014年9月26日に東京大学の駒場キャンパスで行われた研究会で次のように発言したことを思い出す。その言葉を書きつけて、意見書を終わりたい。
「金学順ハルモニの登場に朝日新聞の報道が関与したとして、久しい間、攻撃が加えられ、今も攻撃が、訂正問題の柱の一つにされています。しかし、それはひとえに金学順ハルモニの登場という意味を消し去ろうという愚かな試み、企てに変わりないということです。この件では、多少のミスが仮にあったとしましても、朝日新聞にも植村記者にも非難されるべきことは全くないと私は思います」
以上
凡例▼人名、企業・組織・団体名はすべて原文の通り実名としている▼敬称は一部で省略した▼PDF文書で個人の住所、年齢がわかる個所はマスキング処理をした▼引用文書の書式は編集の都合上、変更してある▼年号は西暦、数字は洋数字を原則としている▼重要な記事はPARTをまたいであえて重複収録している▼引用文書以外の記事は「植村裁判を支える市民の会ブログ」を基にしている
updated: 2021年8月25日
updated: 2021年10月18日