誤りだらけの「捏造」決めつけ■櫻井言説の誤り
証拠3点セットの中身を検証する
櫻井が植村記事を捏造と決めつけた最大の根拠は、「金学順さんはキーセンに身売りされて慰安婦になったのに、植村はそれを書かなかった」というもので、櫻井はその証拠として、①ハンギョレ新聞、②平成3年訴状、③臼杵敬子氏による月刊宝石記事、の3点を挙げた。
①は金学順さんの名乗り出の記者会見を報じた1991年8月15日付記事、
②は日本軍人軍属遺族や元慰安婦ら韓国人戦争被害者が1991年に日本政府を訴えた裁判の訴状に書かれている金学順さんの履歴、
③は月刊「宝石」1992年2月号の記事「朝鮮人慰安婦が告発する――私たちの肉体を弄んだ日本軍の猟色と破廉恥」に書かれた金学順さんの「証言」部分
札幌地裁判決はこれらの証拠について、「一定の信用性を措くことができる資料である」とし、次のように述べて、櫻井の「真実相当性」を認めた。
【被告櫻井が、金学順氏をだまして慰安婦にしたのは検番の継父、すなわち血のつながりのない男親であり、検番の継父は金学順氏を慰安婦にすることにより日本軍人から金銭を得ようとしていたことをもって人身売買だと信じたものと認められる。これらの資料は、金学順氏の共同記者会見の内容を報じたもの、平成3年訴訟を提起するにあたり訴訟代理人弁護士が金学順氏から聴き取った内容をまとめたもの、金学順氏と面談した結果を論文にしたものであるところ、金学順氏が、慰安婦であったとして名乗り出た直後に自身の体験を率直に述べたと考えられる上記ハンギョレ新聞以外の共同記者会見の内容を報じる報道にも、養父又は義父が関与し、営利目的で金学順氏を慰安婦にしたことを示唆するものがあることからすると、上記ハンギョレ新聞、平成3年訴訟の訴状及び臼杵論文は一定の信用性を措くことができる資料であるということができる。そうとすれば、被告櫻井が、これらの資料に基づいて上記の通り信じたことについて相当の理由があるというべきである。】=札幌地裁判決書49~50ページ
では、これらの資料には実際にどのようなことが書かれているのか。判決書では各資料からの部分引用が次のように記されている。
①平成3年訴訟の訴状
原告金学順(以下「金学順」という。)は、一九二三年中国東北地方の吉林省で生まれたが、同人誕生後、父がまもなく死亡したため、母と共に親戚のいる平壌へ戻り、普通学校にも四年生まで通った。母は家政婦などをしていたが、家が貧乏なため、金学順も普通学校を辞め、子守や手伝いなどをしていた。金泰元という人の養女となり、一四歳からキーセン学校に三年間通ったが、一九三九年、一七歳(数え)の春、「そこへ行けば金儲けができる」と説得され、金学順の同僚で一歳年上の女性(エミ子といった)と共に養父に連れられて中国へ渡った。トラックに乗って平壌駅に行き、そこから軍人しか乗っていない軍用列車に三日間乗せられた。何度も乗り換えたが、安東と北京を通ったこと、到着したところが、「北支」「カッカ県」「鉄壁鎮」であるとしかわからなかった。「鉄壁鎮」へは夜着いた。小さな部落だった。養父とはそこで別れた。金学順らは中国人の家に将校に案内され、部屋に入れられ鍵を掛けられた。そのとき初めて「しまった」と思った。=判決書32ページ
②ハンギョレ新聞
17歳、花のような年齢で、5カ月あまりの間、日本軍人たちの従軍慰安婦を経験した金学順(67・ソウル鍾路区忠信洞1・写真)おばあさんが14日午後、韓国女性団体連合会事務室で惨状を暴露する記者会見を持った。」(中略)「「今も『日章旗』を見るだけで嫌な気持ちになり、胸がどきどきします。テレビや新聞で、最近も日本が従軍慰安婦を連行した事実はないと言う話を聞くと、悲嘆に暮れます。日本を相手に裁判でもしたい心情です。」」(中略)「1924年満州吉林省で生まれた金さんは父親が生後100日で亡くなってしまい、生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌にあるキーセンの検番に売られていった。3年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れられていった所が、華北のチョルベキジンの日本軍300名余りがいる小部隊の前だった。私を連れて行った義父も当時、日本軍人にカネももらえず武力で私をそのまま奪われたようでした。その後、5カ月間の生活はほとんど毎日、4~5名の日本軍人を相手にすることが全部でした。」(中略)「挺対協は「金さんの証言をはじめとして生存者、遺族などの証言を通じて歴史の裏側に埋もれていた挺身隊の実相が明らかにされなければならない」と強調した。=判決書30-31ページ
③月刊「宝石」臼杵敬子論文
私は、満州吉林で生まれました。父は独立運動家を助ける愛国者でしたが、私が生まれて百日後に死んだそうです。生活が苦しいために母は二歳になった私を連れて、生まれ故郷の平壌に帰り、親戚を頼ったのです。でも、母子二人の生活は相変わらず貧乏のどん底で、私は小学校四年までしかいっていません。母は家政婦、私は近所の子守をしながら細々と暮らしていたのですが、十四歳のとき、母が再婚したのです。私は新しい父を好きになれず、次第に母にも反発し始め、何度か家出もしました。その後平壌にあった妓生専門学校の経営者に四十円で売られ、養女として踊り、楽器などを徹底的に仕込まれたのです。ところが、十七歳のとき、養父は「稼ぎにいくぞ」と、私と同僚の「エミ子」を連れて汽車に乗ったのです。着いたところは満洲のどこかの駅でした。サーベルを下げた日本人将校二人と三人の部下が待っていて、やがて将校と養父との間で喧嘩が始まり「おかしいな」と思っていると養父は将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかに連れ去られてしまったのです。私とエミ子は、北京に連れて行かれ、そこからは軍用トラックで、着いたところが「北支のカッカ県テッペキチン(鉄壁鎮)だったと記憶しています。=判決書35-36ページ
3つの資料にはたしかに、キーセン(妓生)に関連する記述がある。しかし、これらは、「キーセンに売られて慰安婦になった」という櫻井の主張を決定的に裏付けるものではない(判決書でも、その前段で「継父によって人身売買され慰安婦にさせらたという事実が真実であると認めることは困難である」と述べている)。3つの資料からはキーセンとの決定的な関連ではなく、むしろ、日本軍による暴力行為が、連れて行かれる時と慰安所とで振るわれていたことが読み取れるのである。具体的には、こういうことである
①には「一四歳からキーセン学校に三年間通った」との記述があるが、「キーセン学校」に通学していたことが「身売り」であったとする記述はない。また、金学順は、その3年後に「そこに行けば金儲けができる」と(誰かに)説得され、養父に連れられて中国にわたり、そこで養父とは別れて日本軍将校に案内された後、慰安婦にされたとの経緯を示す記述があるが、誰が金学順氏を慰安婦にしたのかなど、慰安婦にされた経緯については触れられていない。
②には「(金学順氏は)生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌にあるキーセンの検番に売られていった」との記述があり、その3年後に検番の養父によって、中国華北地方の日本軍300名余りがいる部隊の前に連れて行かれたとの記述がある。他方、慰安婦にされた経緯については「私を連れて行った義父も当時、日本軍人にカネももらえず武力で私をそのまま奪われたようでした」とも記載されている。
③には、金学順氏が14歳の時に「妓生専門学校の経営者に四十円で売られ」、3年後に養父が金学順を中国(満州)に連れて行ったことが記載されているが、他方、慰安婦になった経緯については、サーベルを持った日本軍の将校が養父を刀で脅しつけ、養父を土下座させるなど武力によって金学順氏を養父から奪い取り、その結果として金学順氏が慰安婦にされたと明記されている。
判決書の3つの資料の記載は全文記載ではなく、部分引用である。省かれた部分には、金学順氏が慰安所で受けた被害体験とその後の生活苦や、日本政府に対する怒りが克明に書かれている。「継父によって人身売買され慰安婦にさせられたという事実が真実であると認めることは困難である」として「真実性」を否定しながら、「一定の信用性を措くことができ」るとして「真実相当性」を認めた判決には、重要な部分が記載されずに隠されているのである。
以下は、3資料のそれぞれの全文である。判決書で省かれた部分は色文字で表示する。
■①平成3年訴訟の訴状全文=乙イ第43号証
→ PDF(p50~52)
原告金学順(以下、「金学順」という。)は、一九二三年中国東北地方の吉林省で生まれたが、同人誕生後、父がまもなく死亡したため、母と共に親戚のいる平壌へ戻り、普通学校にも四年生まで通った。母は家政婦などをしていたが、家が貧乏なため、金学順も普通学校を辞め、子守りや手伝いなどをしていた。金泰元という人の養女となり、一四歳からキーセン学校に三年間通ったが、一九三九年、一七歳(数え)の春、「そこへ行けば金働けができる」と説得され、金学順の同僚で一歳年上の女性(エミ子といった)と共に養父に連れられて中国へ渡った。トラックに乗って平壌駅に行き、そこから軍人しか乗っていない軍用列車に三日間乗せられた。何度も乗り換えたが、安東と北京を通ったこと、到着したところが、「北支」「カッカ県」「鉄壁値」であるとしかわからなかった。「鉄壁鎮」へは夜着いた。小さな都落だった。養父とはそこで別れた。金学順らは中国人の家に将校に案内され、部屋に入れられ鍵を掛けられた。そのとき初めて「しまった」と思った。翌日の朝、馬の噺きが聞こえた。隣の部屋にも三人の朝鮮人女性がいた。話をすると、「何とバカなことをしたか」といわれ、何とか逃げなけれぱと思ったが、まわりは軍人で一杯のようだった。その日の朝のうちに将校が来た。一緒に来たエミ子と別にされ、「心配するな、いうとおりにせよ」といわれ、そして、「服を脱げ」と命令された。暴力を振るわれ従うしかなかったが、思い出すのがとても辛い。
翌日から毎日軍人、少ないときで一〇人、多いときは三〇人くらいの相手をさせられた。朝の八時から三〇分おきに兵隊がきた。サックは自分でもってきた。夜は将校の相手をさせられた。兵隊は酒を朝から飲み、歌をうたう者もいた。「討伐」のため出陣する前日の兵隊は興奮しており、特に乱暴だった。朝鮮人とののしられ、殴られたりしたこともあった。これらの軍人たちは犬と同じで、とても入間とは思えなかった。部屋の中では、中国人の残した中国服や日本軍の古着の軍服を着させられた。週ないし月に一回位、軍医がきて検診を受けた。同原告は肺病にかかったため、薬をいろいろもらった。六〇六号という抗生物質の注射も打たれた。
金学順はそこでは、「アイ子」という名前をつけられた。他の四人の朝鮮人女性は、一緒に来た「エミ子」の他、最も年長の「シズエ」(ニニ歳)と「ミヤ子」(一九歳)「サダ子」(同)という名前だった。シズエは、別室で特に将校用として一室をあてがわれたが、他の四人は一部屋をアンペラのカーテンで四つに区切ったところに入っていた。食事は、軍から米・味噌などをもらって五人で自炊した。
この鉄壁鎮にいた日本軍都隊は約三〇〇人位の中隊規模で、「北支」を転戦していた。鉄壁鎮には一か月半位いたが、何度か移動した。金学順ら女性たちも一緒に移動させられた。行く先々の中国人の村には、中国人がー人もいなかった。いつも空屋となった中国人の家を慰安所と定められた。
ある日、兵隊が二人の中国入を連れてきて、みんなの前で目隠しをして後手に縛り、日本刀で首を切り落とすところを見せた。密偵だと言っていたが、おまえたちも言うことをきかないとこうなるとの見せしめだった。
金学順は毎日の辛さのため逃げようと思ったが、いつも周りに日本軍の兵隊があり。民間人と接触することも少なく、中国での地理もわからず、もちろん言葉も出来ないため、逃亡することはできなかった。ところが、その年の秋になったある夜、兵隊が戦争に行って少ないとき、一人の朝鮮人男性が部屋に忍び込んできて、自分も朝鮮人だというので、逃がしてほしいと頼み、夜中にそうっと脱出することができた。その朝鮮人男性は趙元讃と言い、銀銭の売買を仕事としていた。金学順はこの趙について南京、蘇州そして上海へ逃げた。上海で二人は夫婦となり。フランス租界の中で中国人相手の質屋をしながら身を隠し、解放のときまで生活をした。一九四二年には娘、四五年には息子が生まれた。四六年夏になり、中国から同胞の光復軍と最後の船で韓国に帰った。
しかし仁川の避難民収容所で娘が死に、一九五三年の朝鮮動乱の中で夫も死に、金学順は行商をしながら息子を冑てていたが、その息子も国民学校四年生のとき、水死した。唯一の希望がなくなり一輪に死にたいと恩ったが死にきれず、韓国中を転々としながら洒・タバコものむような生活を送ったが、-○年前頃から、これではいけないと思いソウルで家政婦をしてきたが、今は年老いたので、政府から生活保護を受けてやっと生活をしている状態である。
身寄りがない金学順にとって、人生の不幸は、軍隊慰安婦を強いられたことから始まった。金をいくらくれても取り返しのつくことではない。日本政府は悪いことを悪いと認め、謝るべきである。そして事実を明らかにし、韓国と日本の若者にも伝え、二度と繰り返さないことを望みたい。
■②ハンギョレ新聞の全文=甲第105号証の2 →PDF
17歳、花のような年齢で、5ヵ月あまりの関、目本軍人たちの従軍慰安婦を経験した金学順(67・ソウル越路区忠信桐1・写真)おぱあさんが、14日午後、韓国女性団体連合会事務室で当時の惨状を暴露する記者会見を持った。
日帝強占の下、従軍慰安婦生活を強要された韓国人の中で、解放後、国内に住みながら自分の惨憺たる過去を暴露したケースは金半順さんが初めてだ。
「この間、話したくても舅気がなくて口を開くことができませんでした。いつかは明らかにしなければならない『歴史的事奥』であるので、告白することにしました。むしろすっきりしました。」
深いしわを刻むおぱあさんに変わってしまった金さんは、50年前の思い出したくない過去去が胸を痛めるかのように目頭を熟くしながら口を開いた。
「今も『日章旗』を見るだけで嫌な気持ちになり、胸がどきどきします。テレビや新聞で、最近も日本が従軍慰安婦を連行した事実はないと言う話しを聞くと、悲嘆に暮れます。日本を相手に裁判でもしたい心情です。」
現在、一月に米10キロと3万ウォンを支給される生活保護対象者として生活を延命している金さんの事情は数奇だ。
1924年満州吉林省で生まれた金さんは父親が生後100日で亡くなってしまい、生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌にあるキーセンの検番に売られていった。3年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に達れられていった所が、華北のチョルベキジンの日本軍300名余りがいる小部隊の前だった。
「私を連れて行った義父も当時、日本軍人にカネをもらえず武力で私をそのまま奪われたようでした。その後、5ヵ月間の生活はほとんど毎日、4~5名の日本軍人を相手にすることが金部でした」
金さんがいた場所は小部隊の前に立てられた仮の建物で、5名の10代の韓国女性がいっしよにいた。米と副食は部隊で提供され、24時間監視状働で過ごした。何回も脱出を試みた金さんは、その時ごとに日本軍人に見つかってひどく殴られもしたと告自した。
当時、わが国と中国を往来し商売をしていた韓国人趙ウォンチャン(31)がちょうど慰安所に立ち寄ったとき、彼にお願いしてやっと逃げ出すことに成功した。その後、趙さんといっしょに満州に行き、中国上海などを転々として住んで、解放後、趙さんとソウルに来て定着した。息子と娘を1人づつ生んで暮らしていた金さんは朝鮮戦争直後に娘と息子を失い、1953年には夫も世を去り、家職掃や日雇い仕事などをしながら苦労して生きてきたと声を枯らして語った。
金さんは、最近、貧困者向けの就労事業に出て会った原爆被害者李ミョンヒ(66・女)さんと韓轜挺身隊開題対策協議会の勧めで事実を明らかにすることを決心したという。
金さんは、「政府が日本に従軍慰安婦問題に対して公式謝罪と賠償などを要求しなけれぱならない」と力強く話した。
一方、挺対協は、「金さんの証言をはじめとして、生存者、遺族などの証言を通じて歴史の裏側に埋もれていた挺身隊の実相が明らかにされなければならない」と強調した。
<金ミギョン記者>
■③月刊「宝石」臼杵論文の全文=乙イ第31号証 →PDF
私は、満州吉林で生まれました。父は独立運動家を助ける愛国者でしたが、私が生まれて百日後に死んだそうです。生活が苦しいために母は二歳になった私を連れて、生まれ故郷の平壌に帰り、親戚を頼ったのです。でも、母子二人の生活は相変わらず貧乏のどん底で、私は小学校四年までしかいっていません。母は家政婦、私は近所の子守をしながら細々と暮らしていたのですが、十四歳のとき、母が再婚したのです。私は新しい父を好きになれず、次第に母にも反発し始め、何度か家出もしました。その後平壌にあった妓生専門学校の経営者に四十円で売られ、養女として踊り、楽器などを徹底的に仕込まれたのです。
ところが、十七歳のとき、養父は「稼ぎにいくぞ」と、私と同僚の「エミ子」を連れて汽車に乗ったのです。着いたところは満洲のどこかの駅でした。サーベルを下げた日本人将校二人と三人の部下が待っていて、やがて将校と養父との間で喧嘩が始まり「おかしいな」と思っていると養父は将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかに連れ去られてしまったのです。
私とエミ子は、北京に連れて行かれ、そこからは軍用トラックで、着いたところが「北支のカッカ県テッペキチン(鉄壁鎮)だったと記憶しています。中国人の赤煉瓦の家を改造した家です。
日本軍が占領したその集落には三百人ほどの日本兵が駐屯していました。トラックで夜着いた私たちは、将校に案内され、真っ暗な部屋に入れられ、外から鍵をかけられ閉じ込められたのです。そのとたん、私は「しまった」という後悔でいっぱいでしたが、もうどうしようもありません。
次の朝、馬のいななきで人々が生活しているのがわかり、室内から外をうかがうと隣の部屋には三人の朝鮮人女性がいるのがわかりました。彼女たちは私たちに「なんで、こんなところに来た。馬鹿なことをして!」と怒りました。その理由はすぐにわかりました。将校が私を小さな部屋に連れて行き、服を脱げと命令したのです。
当時、私は十七歳。何も知りませんでした。そのときのことを考えるだけでも心臓が爆発しそうです。とにかく必死で逃げようとしました。「嫌だ!」と叫ぶと、その日本兵は「この野郎! 朝鮮人のくせに!」とののしり、私を殴り、足で蹴り掲げ、暴力で犯したのです。
その部隊には五人の朝鮮人慰安婦がいました。それぞれ簡単な板で仕切った部屋に押し込まれていました。「しずえ」は将校専門で、私たちは一般兵の相手をさせられました。多い日は一人で二十人以上の相手をし、私は肺病になってしまったのです。いまでもレントゲンでみればその痕があるはずです。
私たちは部隊が移動するたびについてまわりました。二、三回移動した記憶があります。逃げようにも周囲は日本軍の占領地域です。
前線に出撃する前の兵隊は暴力的で、慰労のために無理に歌や踊りもやらされました。その時に覚えた歌がこんな歌でした。
“――諦めましょうと、別れてみたが――”(「無常の夢」の頭の部分を日本語で歌った)
一週間に一度、軍医が来て、私たちを検査します。私も「六〇六号」の注射を打たれた覚えがあります。数回目に移動したときのことです。銀銭商売をしていた同胞男性が舞台に立ち寄りました。私は必死に助けを求めました。そして彼に連れられ、地獄のような日本軍から脱出したのです。
彼の名は超元瓊といい、彼と二人で南京、蘇州、上海と日本軍の目をかすめながら所帯を持ったのです。上海のフランス租界で小さな質屋を営み、二十九歳までに子ども二人が生まれ、そのころが私の生涯でいちばん幸せな時代だったといえます。
凡例▼人名、企業・組織・団体名はすべて原文の通り実名としている▼敬称は一部で省略した▼PDF文書で個人の住所、年齢がわかる個所はマスキング処理をした▼引用文書の書式は編集の都合上、変更してある▼年号は西暦、数字は洋数字を原則としている▼重要な記事はPARTをまたいであえて重複収録している▼引用文書以外の記事は「植村裁判を支える市民の会ブログ」を基にしている
updated: 2021年8月25日
updated: 2021年10月18日